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2004年07月28日

●ロボバーテン。

これはあくまでもイメージ映像です


ロンドンの夜は寒い。


先刻まで降り続けていた雨のせいで、ロングコートはぐっしょりと濡れそぼり、肩に重くのしかかっているようにも感じた。
妻と二人の子どもを残し日本から来て、初めての冬。
今までなら、部屋はもうすっかり暖まっていて、食事も用意されているはずだが、ここでは全て自分でやらなければならない。
帰る部屋が暗く寒い……ただそれを想像するだけで、日本が恋しくなってくる。


暗く冷え切った道路の途中、とあるドアの上に備え付けられた外灯が大きな日だまりを描いていた。
光に近づいていくと、わずかながらに内部から聞き覚えのある音楽が漏れ伝わってきた。
ジャズだった。
ドアに近づいたときに聞こえてきたのは、物静かな品の良い歌声。
まるで、聞くものを皆とりこにしてしまうという、ドイツ民話に登場する歌声を聞いてしまったかのように、俺の心をつかんで離すことはなかった。
つい真鍮製のドアノブに手が伸びる。
明日も朝早くから大切な商談がある。
これから家に帰って資料を揃えなければいけない……心をよぎる、一瞬の躊躇。
ひときわ高く響いたソプラノが、俺の手を引くように、静かに木製のドアを押してしまっていた。


ふわりと全身に感じる暖かな空気。
耳を奪う、美しい歌声。
薄暗い店内には、歌声に聞き惚れる者、静かに顔を寄せ合って談笑する者、一人静かに楽しむ者、様々だった。
俺は静かに、歌声の邪魔にならぬよう、歌声に聞き惚れたままカウンターに席を取った。
「いらっしゃいませ」
薄暗い照明のせいで、俺は声をかけられるまでバーテンがいたことに気づかなかった。
顔を上げると、目の前に……立っていた。

ロボバーテンのいる風景

「ご注文は?」

喋った。
俺の目の前に立つ、銀色のブリキのおもちゃにしか見えないソイツは、確かに今喋ったのだ。
「お客さん、見ない顔だね? 中国人かい?」
「い、いや、俺は日本人だが……」
「そうか、いや失敬。どうもアジア人の区別はなかなか難しくてね」
ソイツは、静かに微笑んだ……ように見えた。
「ロンドンには観光で?」
「い、いや、仕事だよ。ブリティッシュ・テレコムと商談があってね」
「そうかい。遊ぶ時間はあるのかい? ロンドンには見所がたくさんあるからね」
「それが……実はあまり余裕は無いんだ。ここにいることも、本当は許されないんだ」
俺がそういうと、そいつは小さく肩をすくめた。
「全く、いつになっても日本人っていうのは働くことが好きだね。だが、ここに来た以上、仕事のことは忘れてもらうよ」
丁寧に磨かれたカウンターの上に、小さなグラスが差し出された。
「仕事を忘れてくれるなら、これは私のおごりだ」
そいつを見ると、笑っている……ように見えた。
赤い二つの目……というかライトがランランと輝きを放っているのだ。
グラスの中で揺れる琥珀色の液体。
手に持って一息で飲むと、熱い液体が冷え切っていた体を芯から燃やすように感じた。
「いい飲みっぷりだ。気に入ったよ……名前は、なんていうんだい?」
「POO。あんたは?」
「シンシアだ。よろしく」

一杯だけのつもりだったのだが、シンシアに勧められるままに、何杯目かのカクテルをちびちびと口に運びながら、酒が手伝ったせいもあるが、俺とシンシアはすっかり気を許しあっていた。
「旅行は好きだが、まだ日本には行ったことがなくてね。東京はいい町だと聞くが、どうなんだい?」
「ああ、悪くないね。だけど、俺はロンドンも好きになれそうだ」
シンシアの目が点滅する。
どうやら、これは笑っているらしいということを、俺は知った。
「シンシアは、どこの出身なんだ?」
「リバプール。東京に比べれば小さな町だが、活気があって楽しい町さ」
「リバプールか。サッカーとビートルズくらいしか知らないなぁ」
シンシアの赤い目が穏やかに点滅する。
「ビートルズは、私の夢だったんだ」
懐かしむような口調。
「私も、若い頃は友達と一緒にバンドを作った時期があってね。夢はアップルレコードと契約して、MTVのステージに立つことだったんだ」
「今、その夢は?」
「若い頃の夢さ。もうステージに立つなんて、考えてもいないよ」
「そうか……残念だな」
 腕時計を見ると、タイムリミットはとうの昔にすぎていることに気づいた。
「悪いね。そろそろ帰って仕事の準備をしないと」
シンシアは、優しい笑顔で頷いただけだった。

帰ろうとしたとき、ふいに思いついて、呟いた。
「シンシア……君は、どうして音楽をやっていたんだ?」
「それはもちろん、聞いてくれる人が幸せな気分になってくれるようにだよ」
俺は笑った。
「音楽ではないけれど……もう君の夢は叶っているのかもしれないね」
シンシアは、首をひねる。
「どういう意味なんだい?」
「そういう意味さ」
「また来てくれるかい?」
「もちろん」
「じゃあ、今度来るときには、その意味、教えてもらうよ。いいかな?」
「ああ、忘れていなければね」
シンシアの目が、赤く点滅をした。
俺は自然と笑みがこぼれてくるのを抑えもせずに、シンシアの店を後にした。
冷たく暗いロンドンストリートも、そのときはなぜか、日本の夜と変わらないような気がした。

――あなたを幸せな気分にしてくれる、シンシアの店。
いつか、ロンドンにいらっしゃった際にはぜひともご来訪ください。
シンシアが赤い目を輝かせて、あなたをお待ちしております。

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