●Please Listen to My Voice.
この気持ちに気づいたのはいつの頃だろう……なんて考えるのは、とても馬鹿げたこと。
いつでも、いつだって、私の気持ちは新しく生まれ変わっている。
昨日よりも今日。今日よりも明日。十分前よりも今。今よりも十分後。……一秒後には、一秒前よりも、気持ちが生まれ変わっている。
前から三番目、一番窓際の席。
教卓で講義を続ける先生の横顔が一番よく見える、特等席。
私は、運がいい。
夏の日差しに熱せられて、教室には蒸れた匂いが微かに漂う。中には香水をつけている子もいるから、雑多な匂いが混じり合って、鼻につく。女だけしかいない空間は、それだけで強い匂いを発している気がする。
最初は少し嫌だったけど、慣れというのは怖いもので、三日も同じ空間に座り続けていれば、多少の免疫が体内で構築されるらしい。
教室の窓もドアも、廊下の窓も全部開け放たれているにも関わらず、暑い空気は教室に居座り続ける。時折流れ込んでくる生ぬるい風でさえも、救いの天使がやってきてくれたよう。
隣の子は、だらしなく頬杖をつき、派手なヒョウ柄の下敷きを団扇代わりに使っている。
先生は、うす茶色の細い皮バンドの腕時計を見た。黒くて長い髪が重力に従い舞い降りてくるが、慣れた手つきで髪をすくい、視線を教室に戻した。
同時に、教卓の上で拡げられていた国語の教科書も閉じられる。
太宰治の「走れメロス」に関する授業はまだ終わっていないが、どうやらここで一旦終わりらしい。
「期末テストの範囲は、今やってる所までだからね。今週中には終わるから、ちゃんと復習しておくように。暑いからって勉強サボってると、夏休みに補習受けることになっちゃうわよ」
えぇ~。
教室中でわき起こる、力無い、情けない抗議の悲鳴。
暑さで声の出力まで絞られているようだ。
多分、この教室の中で補習を受けたいなんて考えているのは、私だけなのかもしれない。その為に、わざとテストの点数を落としても構わないとも思っている。だけど、実行するには勇気もいる。三十点以下の赤点を取れば、追試を受ける資格が得られる。補習を受けるには、更に赤点を重ねなければならない。
悲しいことに、国語は得意な教科だ。
勉強なんかしなくても、三十点は簡単に取る自信はある。先生だって、赤点防止のために、大体三十点くらいはサービス問題を出すだろうし。
……先生と夏休みを過ごしたいとは思うけれど、馬鹿な生徒だとも思われたくは無い。
二律背反。
今の私が使うことに、カントは許してくれるかしら?
女子高に入学して、三ヶ月が経とうとしている。
その間に、私は自分自身の「性」というものを深く考えることになってしまった。
十代――いわゆる思春期に、同姓に対して、異性に抱くような愛情を感じることは、それほど珍しいことじゃない。
文章にすれば、それほど長くない一行。だけど、理解するまでは、手錠に繋がれたまま海に捨てられたような気分だった。
先生に対して抱いた感情。
私の人生を狂わせるのに充分な感情。
男にレイプされた事があるわけじゃない。
同様に、男を汚く思っているとか、嫌いだなんて思っているわけじゃない。
たった15年しか生きてはいないけど、それなりに男を好きになって、男の良さも分かっているつもりだ。
とても、自然なことなんだ。
私が先生に対して抱いた感情は、抱くべくして抱いてしまったにすぎない。
女が男を好きになってしまうことが自然の成り行きであるように。
私は、自然の成り行きのままに、先生を好きになってしまった。
ただ、それだけに過ぎない。
……なぁんて、開き直れたら、楽なんだろうけど。
先生に対する感情が大きくなることに比例して、罪の意識も大きくなっている。
そう。
多分、そう。
私は――。
チャイムが響いた。授業の終わりと同時に、私は教科書、ノートを閉じた。
起立、礼という儀式を済ませると、先生は早々に教壇から離れて、教科書を胸に抱いて教室を出ていった。
私はトイレにでも向かうような何気ない表情で、目立たないように意識した速度で、白いブラウスを追いかけていく。
すぐ後ろまで追いついた時、目の前で茶色いチョーク入れが身を投げた。
あっと先生の小さな悲鳴。
私はとっさに手を伸ばし、右手でしっかりとチョーク入れを掴んだ。
「せーんせ、気をつけてくださいね」
見上げると、ほっとした表情。すぐに朗らかな笑顔に変わる。私は悠々とチョーク入れを手渡した。
「大瀧さんって、意外と反射神経あるのね」
「あ、それって何か失礼じゃないですか? それじゃまるで、普段の私は鈍くさいみたいじゃないですか」
「だって、普段あんまり運動している姿見ないから。いつも読書ばかりだし。だからほら、肌の色だってこんなに白いまま」
先生の視線が、私の瞳に飛び込んでくる。鼓動が高鳴る。
「いいんですよ、肌は白くても。先生も少しは気をつけた方がいいですよ? 今は黒いより白い方がモテるんだから」
「あ、それって私に対する嫌味?」
笑顔はそのままに、言葉に少々トゲが混じる。
「べ、別にそんなことないですよ。もうすぐ三十歳なのにとか、相変わらず男っ気ないなとか、そんなことゼンゼン思ってませんよ。これっぽっちも、ホントに」
「じゅーぶん、嫌味じゃないのよ」
口を尖らせての抗議。
「そ、それはまぁそれとしてですね――本を読むのはしょうがないですよ。じゃなかったら、文芸部なんかに入りませんから。それとも、私が文芸部にいるのは邪魔ですか?」
「邪魔も何も、大瀧さんくらいしかいないじゃない。文芸部として活動しているのは。ま、文芸部なんてそんなものなんでしょうけどね。みんな帰宅部の代わりとしか思ってないもの」
「でも、私は先生と二人でお話できるの、すっごく嬉しいですけど?」
「そう? ありがと」
先生も私も、冗談めいた笑顔。
今は、冗談でしか口に出来ない。
本気なのに。
今日のように早い時間に国語の授業がある日は、最高に退屈な一日となる。放課後まで、ほとんど先生と会うことが出来ないから。
退屈な授業の途中、たびたび感じてしまう。このままじゃ、国語以外で赤点を取りそうだって。
授業に身が入らない。勉強をする気が起こらない。
私にとって、学校は、授業は、勉強は、部活は、先生に近づくための手段だから。今は、それ以上に考えられないから。
それでもため息をつきながらノートにペンを走らせる。
先生と会える可能性を、他教科の赤点なんていうくだらない理由で失いたくはないから。
ブルブルッと携帯電話が揺れる音。
ノートを取るふりをして、机の中に手を入れて携帯電話に触れる。すぐに振動は収まった。
携帯電話を机からわずかに出して、周囲をうかがいながら液晶を目にすると、メールが一通届いていた。
【コラ~】
ぼんやりしてないで、ちゃんと授業に集中しなさい!――なーんてメールを出す私も私かな?('-'*)
先生だった。
周囲に視線を走らせる。どこにも見えない。一階にある教室。広大なグラウンド。楽しげな声が聞こえ、体操服で授業を受ける生徒たちの姿。甲高い声のセミ。教師の怒鳴り声。雑多な周波数が満ちている。でも、先生の存在はない。先生がいない。
どこにいるんだろう?
廊下を見る。黒や茶色の頭。みんなノートをとっていた。廊下は見えるが誰もいない。先生がいない。どこにもいない。
目の前に壁が出来た。
見上げた瞬間、手が伸びてくる。
私はとっさに電源ボタンを押した。
次の瞬間には、私の手から携帯電話は離れていた。
髪の毛の薄い数学教師が、苛ついた表情で私を見ていた。
「授業中の携帯電話の使用は禁止だぞ。これは先生が預かっておくから、放課後取りに来なさい。反省文の準備も忘れるなよ」
無造作に握られた携帯電話の液晶が目に入った。
何も映っていなかった。
放課後、私は職員室の隣にある会議室で一人、三枚の原稿用紙と向き合っていた。反省文を提出しなければ、携帯電話が帰ってこないからだ。
頭の中に浮かぶのは、先生への文句。どうしてメールを送ってきたのか。いつもは送ってくれないのに。どうしてあんなタイミングで送ってきたのか。問いつめてやる。
早く先生に会いたいのに、原稿用紙は埋まらない。考えがまとまらないからだ。原稿用紙三枚くらい、いつもだったらすぐに埋まるのに。関係ないことばかりだ。先生のことばかり。
シャーペンを原稿用紙に添えても、一向に文字は現れない。
カチカチ。
カチカチカチ。
カチカチカチカチ。
カチカチカチカチカチ。
カチカチカチカチカチカチ。
白い原稿用紙の上に、黒い芯が落ちていた。
反省出来ない。
いつまでたっても反省出来ない。
このままじゃ、先生に会うことが出来ない。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
たっぷり一時間以上かかって仕上げた反省文を持っていくと、たっぷり三十分以上のお説教が待っていた。
それでもどうにか携帯電話を返して貰うと、すぐに私は図書室に向かった。
三階へと向かう途中、電源を入れた。すぐに先生から来たメールを読む。液晶画面を見たまま、駆けのぼっていった。
図書室には誰の気配も無かった。
珍しく、図書委員の姿も無い。
一応、放課後の図書室は文芸部の部室としても使用されているけれど、文芸部の名で使用している生徒は、今のところ私と先生くらいだ。
部員名簿には十数人の名前があるが、ほとんどは幽霊部員。私以外の部員をここで見ることが出来れば、その日は大変活発な活動をしたような気にさえなってしまう。
本棚の奥にある数人がけの細長いテーブルが、文芸部員の定位置だ。
そこに先生の姿があった。
両腕を枕にして眠っている。
ロマン発掘、心の夏休み――そう書かれた早川文庫のしおりが、カバーの外れた文庫本の下敷きになっている。
外れたカバーには、茶色いネコの後頭部。
ロバート・A・ハインラインの「夏への扉」だった。
「……先生?」
声をかけてみても、起きる気配は無い。
定期的な吐息だけが、微かに聞こえてくる。
起こそうと肩を掴みかけたが、やめた。
傾きかけた陽光が、先生の黒い髪の毛を輝かせていた。
伸ばした手が、わずかに触れた。
先生の髪の毛は、とても、柔らかかった。
グッと唇を噛みしめる。そうでもしなければ、体が動いてしまいそうだから。
白い頬に鋭い日差し。
赤く染まる唇。
長いまつげ。可愛い大きな瞳を見ることが出来ないのが、とても悲しい。
少し、近づいてみる。
先生は、とてもいい匂いがした。心地よい香り。香水だとは思えなかった。先生の体から出てくる匂いなんだろう。間近で見る肌はきめ細かくて、綺麗だった。きっと、感触もいいのだろうなと――伸ばしかけた手を引き戻す。柔らかそうな耳たぶ。
体が熱い。
周囲を見渡す。
誰の姿も無い。
先生は眠っている。
先生と、私だけの空間。
白い頬が、まるで何かを待っているようにさえ見えてしまう。
錯覚。
自分の指で、自分の唇に触れた。吐息が熱かった。唇がどうしようもなく柔らかくなっている。まるで、この先を期待するように。
高鳴る胸を押さえるために、学生カバンを先生の向かい側の席にそっとおいた。
イスに座る。
先生の寝顔から目を離すことが出来ない。
「先生?」
声をかけてみても、反応はない。
「あの、さっきどうしてメール送ってきたんですか?」
返事が無いことを分かっていながら、液晶画面と先生の寝顔を一度だけ往復する。
今なら――少しくらいなら、起きないのでは無いだろうか?
先生の唇の感触を想像してしまう。
柔らかいのかなあと。自分の唇よりも。
体が熱いのは、夏の日差しのせいだけじゃない。
片手で携帯電話を握りしめる。
空いた手を、そっと伸ばしてみる。
誰にも悟られないように、先生の頬に手を触れた。
ふわりとした感触。指先から電撃のように脳髄にまで感じる。反射的に身を引いた。
初めて触れた。顔に触れた。先生の顔。想像するだけで火照ってしまう顔。
先生は起きない。
携帯電話からきしむような音が聞こえた気がする。
手を伸ばした。指先に触れる感触。気持ちのいい感触。先生は起きない。指先が這っていく。手のひらで頬にふれる。暖かな感触。熱い。気持ちよかった。先生の頬は、とても気持ちいい。
戻した手には、未だ先生の感触が残っていた。さらっとした肌触りが、まだ私の皮膚に残っていた。
周囲に人の気配は無い。
誰も来る気配もない。
私はそっと立ち上がった。
先生は、まだ起きない。
心臓が、張り裂けそうだった。鼓動が体の外に漏れているような気がした。
先生の唇だけが、私の意識の全てだった。
奪ってしまいたい。
衝動。
最後の理性が、欲望に鎖をかけている。
暴れ回る欲望は、理性の鎖をもちぎろうとしていた。
一歩、先生に近づいた。
体を倒すだけでいい。
わずかな距離を上下するだけで、私の欲望は満足する。
少しなら――まだ、先生は起きそうにないし――。
自然と、私の体は前に倒れていく。
視界には、もう先生の顔さえ見えていなかった。
唇だけが、視界を覆い隠していた。
先生の香りを感じる距離にまで到達した。
吐息すらも、肌で感じる距離。
もう、時間も距離も、先生と同じ空間にまで達しようとしていた。
「ん……」
先生の声が唐突に響く。
寝言。
そう、そうだ。そうに決まってる――!
私は反射的に体を起こし、先生から数歩後ずさった。
心臓が確実に破裂した。
振り返って走り出した。
いられなかった。
先生と同じ空間になんて、いられなかった。
◆
学生カバンを先生の前に置いてきたままだということに気づいた時には、すでに学校と家の中ほどまで来ていた。
立ち止まって荒い呼吸を鎮めながら、アスファルトを振り返る。
住宅街の影が、傾きかけた日差しから守ってくれてはいるが、それでも蒸し暑いことには変わらない。
汗でブラウスが肌に貼りついているような気がする。
見ればうっすらと両腕に汗が噴き出ている。
学校はもう見えない。
手の中には、握りしめられた痕でも残っていそうな携帯電話だけだった。
取りに戻るかどうか――携帯電話を通常の待ち受け画面に戻しながら考える。
でも、図書室で再び先生に会ってしまったら、私はどんな顔をすればいいのだろう?
いつも通りの演技が出来るだろうか?
何気ない生徒のフリを。
ただの本好きな少女を。
……無理だ。
こんなに心臓が爆発音を響かせていては、とても無理だ。
どうせ教科書は全部教室に置いてある。カバンが無くても、基本的には困らない。明日の朝、早めに図書室に行って取ることにしよう。
何より今は、先生と会いたくない。
死んでしまうかもしれないから。
上空から見れば大きなモザイクに見えるだろう、平凡な住宅街の一角に私の家はあった。
パタンと小さな音を立てて、白木のドアを閉めて、ようやく私は、私だけの空間に辿り着くことが出来た。
家の二階にある、わずか六畳の小さな空間。
ここなら、どれだけ先生のことを想ったって、誰にも邪魔されない。
薄いピンクのシーツが覆う、ベッドに身を投げた。
荒い呼吸は簡単に収めることが出来た。
肉体の、微かな動きさえも消すことが出来る。
ただ一つ。
痛いくらいに動き続ける心臓だけが、私には収めることが出来ない。
仰向けになって、茶色い天井を見上げた。
ふぅっと、大きく息を吐き出す。
片腕で、視界を覆った。
暗闇の中に映像が浮かぶ。
わずか十分ほど前の映像。
先生の顔。
眠りについて、無防備な先生の顔。
あんなに近づいたことは、かつて無かった。
あんなに触れたことだって……かつて無かったし――二度は無い、だろう。
もうあれほど近づくことは出来ない。
そう考えるだけで、苦しかった。
考えるだけで、痛くなる。
こんなに痛いのに。
胸がどんなに痛んでも、癒せない。
私一人じゃ癒せない。
先生が、私を見てくれるまで、私には痛みを抑えることさえ出来ない。
鎮痛剤をください――甘えた声で呟いてみる。
届かないことは分かっている。
私、どうしてこんな恋してるんだろう……。
考えて、バカバカしくなって、それでもやっぱり苦しくって、叶う可能性なんてゼロに等しいってことだって、充分に分かってるはずなのに――
痛い。
痛いよ。
先生のこと、考えるだけで痛いよ。
じわっと瞼の奥が熱く濡れてきた時、16和音に書き換えられたビートルズの「Penny Lane」が流れた。
携帯電話の着信メロディだ。
手のひらで、微かに震えているように感じる。
仰向けのまま、液晶画面を見てみると、番号と名前が表示されていた。
――先生。
「はい、もしもし――」
体を起こし、次の瞬間には通話ボタンを押していた。考えることさえなく――先生とわずかでも接点が持てるという、ただそれだけで、私の体は反応する。反射運動なのだ。脳が判断するまでもない。
体が、知っている。
「あ、大瀧さん? 今、どこにいるの?」
先生の声。
顔が熱くなった。耳元から聞こえてくる声は、それだけで甘い刺激を私にくれる。
「あ、えっと今はその……と、友達と一緒に学校出て来ちゃって――」
「カバン、図書室に忘れたでしょう?」
「それは、あ、じゃあ、今から取りに行きます。すぐに行きますから」
「もう期末テストも目の前なのに……もうちょっと勉強のことも考えなきゃダメじゃない。最近、授業中もぼんやりしてるって、先生方が言ってるわよ? ちゃんと勉強してるの?」
「してますよ、勉強はちゃんと。カバンが無くても、勉強道具は家にちゃんとありますから。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫ですよ。期末は絶対いい点取ってみせますから」
ふぅと微かなため息。耳にかかってきそうで、くすぐったい感触。
「それじゃ、カバンは私が持っていってあげるから。友達と遊ぶのもいいけど、勉強もしっかりするのよ」
「え!? あ、先生!?」
切れていた。
持ってくるってどこに!?
そんなこと言われて思いつく場所は――ココしかない。
以前、先生と喋りすぎて帰りが遅くなったとき、送ってきてもらったことがあるから、先生は私の家がどこにあるか知っているとは思うんだけど――だからって、ウチに来るの!? よりにもよってこんな時に!?
鏡の前に走っていって、髪型チェック、身だしなみチェック。ブラウスの匂いをかぐと、ちょっと汗くさいように感じる。新しいブラウスに着替えてもいいんだけど……それも何となくわざとらしいような感じがするような気がする……。
振り返って部屋を見回して、雑誌を拾い上げて、文庫本を拾い上げて、本棚にかかるカーテンを上げて、全部放り込む。
消臭スプレー「ファブリーズ」を手にとって、マクラとベッドとクッションとイスとカーペットとカーテンとくまのプーさんに吹きかける。
……そこまでして、ハタと気づく。
わ、私が部屋を掃除してどうするのよ!?
先生がウチに来たとしても――どうせ、家の中には来てくれないし――それより、家に来たとき、私が家の中から出てくる方が変じゃない!?
私は今、友達と一緒にいるわけで――だとしたら、私一人でいたらオカシイよ、絶対。
誰か、誰か一緒にいなきゃ――携帯電話のメモリを漁っても、今すぐ呼び出したい友達は見つからなかった。
だって、何たって、今から友達呼びだして、どうするのよ。先生と話すためだけに友達呼びだしたって、意味無い上に、先生との2人きりの時間が――それに、今の私じゃ絶対、友達にも先生にも悟られる気がする。私がどんな気持ちなのか、悟られたら――恥ずかしすぎる!
ダメだ……今日は会えないよ……先生が来てくれても、私は会えないよ――。
窓の外から学校の方を眺めていると、沈みかけた真っ赤な光が、住宅街の隙間から注いで、私の目を輝かせる。
学校は見えない。でもきっと先生のことだ。もう学校は出ているんだろうな。
先生の車だったら、十分とかからずに辿り着くだろう。
せっかく来てくれるのに。
会いたい。
会いたいよ、先生。
一瞬でいいから、先生の顔を見て、一言でいいから、先生と言葉をかわして、最後まで先生のこと、見送ってあげたい。
変な言い訳しなければ良かった。
もっと素直に言えば良かった。
ただちょっと忘れちゃっただけですぅ~……ものすごくバカみたいだけど。
みんなはこんな時、どうしてるんだろう?
誰でもいいから、私に教えてよ……。
赤い小さな車――トヨタのヴィッツがゆっくりと向かってくるのが目に入った。
ああ、先生の車だ。
やっぱり、考えた通り、先生はすぐに来てくれた。
赤いヴィッツは、私の家の前に止まると、運転席から素早く先生が姿を見せた。
入り口の門柱の所にあるインターホンに手をかけたように見えた時、私の背後でも来客者を告げるチャイムが鳴り響いた。
先生は、誰も出てこないことに少し躊躇っている様子だけど、すぐに門を開けて、小走りに玄関に向かったようだった。この角度からじゃ、玄関の様子までは見えない。
先生はすぐに戻ってきた。門をしっかりと閉めて、携帯電話を取りだし、素早いキータッチでメールを送っているようだった。
先生が赤いヴィッツに乗り込んだとき、私の携帯電話がメールの着信を知らせた。
見なくたって、メールの内容は分かってる。
差出人は先生。
内容は、私のカバンを玄関に置いたということ。
ただ、それだけ。
味も素っ気もない内容。
赤いヴィッツは走り出した。どんどん私の家から遠ざかっている。
先生は、私が見ていることに気づいてくれなかった。
……当たり前だけど。
赤いヴィッツが完全に見えなくなってから、私は玄関まで走っていき、ドアを開けて学生カバンを手に取った。
私の匂いに混じって、ほのかに先生の匂いが残っているような気がした。
先生がここにいたんだという確証を、そこから感じて嬉しくなって、同時に悲しくなった。
会えなかった。
ここで会って、お茶でもすすめれば部屋にだって来てもらえたかもしれないのに、全ては最初の失敗で終わってしまった。
せっかくのチャンスを逃してしまったことが、私は悔しかった。
悔しくて悔しくて悲しくて……切なくて……胸が張り裂けそうに痛くて……。
あんまり痛くて――いつの間にか、熱い滴がこぼれていた。
◆
こんなに気持ちが大きくなったのはいつの頃からだろう……なんて考えるのは、とても馬鹿げたこと。
いつでも、いつだって、私の気持ちは大きくなっている。
昨日よりも今日。今日よりも明日。十分前よりも今。今よりも十分後。……一秒後には、一秒前よりも、気持ちが大きくなってる。
先生を想う気持ち。
必死で抑えつけておかなきゃ、いつ爆発するか、私にだってもう分からない。
空気を入れすぎた風船みたいに、バァーンと……今すぐにでも、破裂しそう。
期末テストが終わると、教室の中は夏休みを目前に控えて自然と浮かれた雰囲気になってきた。中には、恋人と旅行に行ってくるなんて子もいたりする。
そんな浮かれた空気の中で、私だけが鉛を食べたかのように沈み込んでいた。
テストの点数は悪くない。
順位も、中の上といったところ。
先生も、両親も、みんなが安心して誉めてくれるくらいの点数。
期末テストを境に、一つだけ変わったことがあるとすれば、先生に出来るだけ会いたくなくなったということだろう。
先生と一緒にいると、疲れてしまう。
気持ちを隠して、何気ない素振りを装って、必死で誤魔化そうとしていることに、疲れてしまう。
一人で黙って、貝のように閉じこもってしまう方が、私には楽だった。
現実の先生がいくら素っ気なくたって、私の中の先生はいつだって私の気持ちに応えてくれる。
好きだと言えば好きだと答えてくれるし、愛してるといえば愛してると答えてくれるし、寂しければ寂しさを紛らわせてくれるし、切なければ切なさだって消してくれる。
自分の中に作った先生と恋愛をすることが、どんなに虚しいことなのかくらい、私にだって分かっているつもりだ。
でも、そうでもしなければ、私の中で先生への気持ちが大きくなりすぎて、吐き出す場所を見つけなければ、体が持たない。
壊れてしまう。
「久しぶりね、大瀧さん」
二週間ぶりの図書室で会った先生は、以前と何も変わらず、いつもどおりの誰にでも向ける朗らかな笑顔で、私を迎えてくれた。
「カバンを学校に置いていくくらい遊びに夢中になってたのに、ちゃんと勉強はしてたみたいね」
笑顔のまま、先生はちょっと毒を含ませる。
「だから言ったじゃないですか。勉強してないように見えて、これでもしっかり勉強してるんですから」
笑顔のつもりで、何気ないフリで、先生の向かいに腰を下ろす。
いつもと同じ、私の特等席。でも今は、まるで裁判の被告人席のようだ。
「でも、先週はどうしたの? あんまり部活に顔を出さなかったみたいだし――」
「あ、先週は、ただちょっと友達と期末テストの打ち上げみたいなのが重なっちゃって……」
打ち上げと称して遊んだのは事実だ。でも、以前の私だったら、打ち上げよりも図書室を選ぶのだろうけど。
先生の澄んだ瞳に見つめられていると、今すぐにでも、私の気持ちを打ち明けてしまいたい衝動にかられる。
でも、現実の先生は違うことを分かってる。
私のことを受け入れてはくれないだろう。
先生はただ、たった一人のマジメな文芸部員だからこそ相手をしてくれているんだと思う。
先生にとって、私はやっぱり生徒なんだ。
先生の前にいると、どうしても後ろ向きな気持ちばかりがふくらんでくる。
「でも、この文芸部で部活って言うのも何か変な気分ですね。だって、いっつも先生とお喋りしてるだけだし」
「つまらない? って、しょーがないか。先生と話しててもねぇ――」
「いえっ! つまらなくなんて無いです!」
先生の言葉に、つい大きく反論してしまう。
気が付いて、すぐに顔が赤くなってしまった。先生を見ると、わずかに驚いたようだけど、嬉しそうに笑ってくれた。
「良かった。私も大瀧さんとこうしてる時間、楽しくて好きなのよ。私だけが楽しくちゃ、悪いみたいだしね」
――好き……。
先生にその言葉を使われると、ただそれだけで、心臓が大きく飛び跳ねる。
好きという言葉に、私が考えるような意味が含まれているわけじゃないことは、よく分かっている。
でも、それでも……嬉しかったりする。
疲れていたのは、先生の前で気持ちを隠そうとしていたからじゃないのかもしれない。
先生の一言一句で、私の感情が一喜一憂してしまうから……。
先生と合法的に2人きりになれる時間に舞い上がりすぎてしまうから、体が持たないのかもしれない。
……期末テストで一週間、終わってからの一週間、先生を避けていたけど、逆にその方が体に悪いみたい。
やっぱり、先生に会いたい。
会って、声が聞きたい。
私がいるってこと、目の前で見てるってこと、先生に意識してもらいたい。
私の存在を、先生に認めて欲しい。
限りなく少ない望みかも知れないけれど、今は少しでも側にいたい――。
夏の夕暮れは長いけれど、五時になったところで、いつも通り部活は終わりになった。
今日は二週間ぶりということもあって、読書もせずに、ずっと先生と喋り通しだった。
「あと二週間くらいで夏休みになるんだね。夏休みには何か予定でも入ってるの?」
図書室から出て、一階に下りていく途中、先生が不意に声を出した。
「えーっと……寝ることと遊ぶことくらいしか、予定は無いです」
私の言葉に、先生は可笑しそうに笑った。
「大瀧さんらしい答えね。出かける予定とかは無いの?」
「お盆になったら、おばあちゃんの家に家族で行くと思いますけど……他には特に無いです。旅行とかに行かせたいんだったら、もうちょっと宿題の量、減らしてくれればいいのに」
「学生さんは大変ね。でも、宿題忘れたら、怒るけど」
先生は怒ることを楽しみにしているようだ。
怒られるもいいかな……なんて、私はまた考えてしまう。
「先生こそ、何か予定は無いんですか? 街に出て、彼氏でも探してみるとか?」
いつもだったら、先生は唇をとがらせて抗議してくる所なのに、今日はそうではなかった。
意味ありげな含み笑いで、視線を下げた。
先生の顔がほのかに色づいたのは……夕日のせいだけじゃない?
「大瀧さんにだけ、教えてあげようかな?」
先生が私を見た。
先生の顔は、私のよく知っている感情が表れた顔だった。
そう、先生の顔は、私と同じ顔――。
私の胸が高鳴った。でも、それは先生を想って高鳴ったわけではなく――後に続く言葉に、不吉な予感を感じて高鳴った。
階段は終わった。
私はまっすぐ生徒用昇降口へ、先生は左の職員室へ。
「私ね、結婚するかもしれない」
小さな声で呟いた、先生の横顔を、私は多分、一生忘れないだろう。
いつもの笑顔とは違う、どこか遠くの、私の知らない誰かを想う横顔。
もう三十歳に手が届きそうなはずなのに、純粋無垢な少女のような笑顔だった。
先生は言うだけ言って、それじゃと小走りに職員室へと戻ってしまった。
後に残された私には、さよならを言う暇さえ与えずに。
学生カバンを握りしめ、靴を履き、一人で学校を出た。
赤く染まったアスファルトを、私の長い影が切り裂くように伸びている。
すれ違う人が、みんな私の事を見ているように感じた。
そんなに私は珍しい姿なの?
そんなに私は面白い顔をしているの?
見ないでよ……私を見ないでよ……。
自分の気のせいかもしれないと思いつつも、見ず知らずの他人に見られるのは、愉快な気分にはなれなかった。
でも……。
塩辛い味が口の中に広がったことに気づいたとき、私はようやく悟った。
先生は多分、知らないだろう。
先生のことをこんなに想って、こんなに苦しんで、傷ついて、喜んで、楽しんで、泣いて、笑って……恋いこがれている人間がいることを。
先生に認めて欲しい一心で、何でも出来てしまう人間がここにいることを。
先生のためなら、全てを捧げる覚悟さえ出来ている人間がここにいることを。
先生は知らない。
もう、一生気づくことさえないのだろう。
先生は結婚して、幸せのうちに、私のことなど忘れていくのだろう。
覚えていたとしても、それは他の生徒よりも、少しだけ自分に懐いた生徒だったと……ただそれだけでしかないのだろう。
私は、しょせん、生徒。
大多数の中に紛れ込んだ、単なる生徒。
生徒ではなく、一人の人間として認められることは……無理なのだろう。
自分の部屋に帰ってきてようやく、私は自分を解放することが出来た。
先生に恋したまま、泣くことが出来た。
先生への積もりつもった全ての感情を、私は涙にした。
でも、涙では終わらなかった。
どれだけ泣いても、どれだけ叫んでも、先生への想いは尽きることが無い。
溢れてくる。
奥から、どんどん奥から、心の奥底の一番深い場所から、涙と一緒に溢れてくる。
私の全ての体液が、涙として流れ出てしまうまで、先生を想う気持ちが無くなることは無いのかも知れない。
もしかしたら、涙が尽きたとしても、私は先生への想いを溢れさせてしまうのかも知れない。
私は、涙でしか表現することが出来なかった。
◆
「先生、これ余っちゃったんですけど、写真撮ってもいいですか?」
笑う私の手には、使い捨てカメラ。
学校で友達と撮るために、朝学校に来る途中のコンビニで買ったものだ。
「撮るって、私の写真を? いーわよ、撮らなくて。高校生と比べられるなんて、恥ずかしいじゃない」
図書室のいつもの場所に座ったままの先生は、まんざらでも無い様子で小さく手を振った。
「だってフィルムが余ったまま現像に出すのって、なんかもったいないじゃないですか。他の人には見せませんから。ね? せーんせ、お願いだから写真撮ってもいいでしょ?」
先生の向かいに座りながら、私は両手を合わせて、お願いっと頭を下げる。
夕焼けに染まったまま、先生は小さなため息。
「もう、しょうがないなぁ。――その代わり、若く撮ってよね」
悪戯っぽく笑う先生。
私がカメラを向けると、先生は文庫本を閉じて、顔の横で小さくピースサイン。
シャッターを切ろうとすると、開け放たれた窓から柔らかな風が舞い込んできて、先生の黒髪を舞い上げる。
先生は舞った髪を抑えながら、私に向かって首をかしげて、困ったような微笑みをくれた。
私は三回シャッターを切った。
一度目は、フィルムを巻いていないフリをして。
二度目は、指が入ったような気がすると言い訳をして。
三度目は、ようやく撮れたようなフリをした。
「フィルム、まだ余ってる?」
私が満足していると、先生が手を伸ばしてきた。
「ええ、まだ一応余ってますけど……」
「じゃあ、今度は私の番。大瀧さんの写真、撮ってあげる」
「え!? い、いいですよ、別に。私の写真なんか、撮ってもしょうがないし」
「いーから。そんなこと言ったら、私の写真だって撮ってもしょうがないでしょ。いいから貸しなさい。ほら早く」
ひらひらと、私の前で細い先生の指が宙をかく。
はーい。私は渋々と、先生の手にカメラを置いた。
満足そうな顔で、先生はカメラを構える。
「はい、それじゃ、可愛く笑って」
「可愛くって言ったって……そんなの、自分じゃ分かりませんよ」
「いいから。自分で可愛いと思う顔をしてみてよ」
ん~。
私は数秒間思案したのち、自分で出来る限りの「可愛い顔」を表現しようと頑張ってみた。
カシャッと、使い捨てカメラ特有の、安っぽい小さな音が響く。
「うん、なかなか『可愛い顔』だったわ」
意地悪そうに言った先生の言葉の意味が分かったのは、それから数日後のことだった。
頬がひきつり、眉間にしわがより、無理矢理作っていることが見え見えの「可愛い顔」。
正直言って、自分でもこれほど可笑しくなるとは思わなかった。
写真の中の私は、同じように写真の中で綺麗に笑う先生を見ていた。
夏が来る前の図書室が、写真の中には封じ込まれていた。
自分の気持ちに気づいてはいたものの、今ほどは苦しくない、幸せだったころ。
たった一ヶ月くらいしか経っていないのに、どうしてこんな気持ちにまで成長してしまったのか……自分でも分からない。
二枚の写真を手にとって、無理矢理ツーショットを作ってみたり、唇と唇を合わせてみたり……。
涙が止まって、落ち着いて、夜になって、いっそう先生の方にばかり気持ちが向かっていってしまう。
「私ね、結婚するかもしれない」
先生の言葉が、未だ耳から離れない。
思い出すだけで、心の中がざわめいて、今にも涙が溢れてきそうになってしまう。
諦めるべきなのか。
告白してしまうべきなのか。
どうするべきなのか、自分でも分からなかった。
でも、動くなら今しかない。
先生がいつ結婚するか、分からないから。結婚してしまったら、もう先生は、私の事を見てくれない。
……結婚しなくても、私のことは見てくれないのかもしれないけれど。
深い静寂に包まれた夜の中で、私はずっと先生の顔を思い出していた。
笑った先生、怒った先生、イジワルな先生、優しい先生……数え上げたらキリがないほど、たくさんの先生が私の中には住んでいた。
いいところだけじゃなく、イヤなところだってもちろんある。
でも、それも含めて、私は先生のことを好きなんだと思う。
先生と、ずっと一緒にいたいって、思ってしまう。
先生が誰かのモノになると考えただけで、怒りがこみ上げてくるし……どうしようもなく、寂しくなる。
私は自分勝手なんだろうか?
先生の気持ちを分かっていながら、自分の気持ちを受け止めて欲しいと考えるのは……最低のわがままなんだろうか?
最低でも、最悪でも、非人道的でも構わない……。
私は、先生を手に入れたい。
先生を私のモノにしたい。
……なんて、考えてしまうけど、結局……
先生に嫌われることは、何よりも怖かった。
それから毎日、いつでもどこでもどんなときでも、同じような事ばかりを考え続けていた。
先生には会えなかった。
会ってしまったら、自分の気持ちが先生になだれ込んでしまうことが、分かっていたから。
どうしよう。
どうすればいいんだろう。
私は、今、どうしたいんだろう?
自分の気持ちさえも、分からなくなってしまいそうだった。
◆
【先生へ】
先生、私にとって一番辛いことって、なんだか分かりますか?
先生と離れていることとか、会えないこととか、喋れないこととかじゃないんです。
私、私の気持ちが先生に伝えられないって事が、何より辛いんです。
だから、今から伝えようと思います。
もう、今しか伝えることが出来ないと思うから。
今までずっと隠してきたけど、もうそれも限界……。
先生に伝えられない気持ちなんて、私には毒薬でしか無いから……。
先生は私のこと、変だと思うかも知れないけど、でもしょうがないんです。
だって、こんなに好きになってしまったから。
私は先生のことが好きです。
世界中の何よりも、先生のことが好きです。
出来ることなら、先生にも私のことを好きになってもらいたい。
私と同じ気持ちで、私を見て欲しいと思う。
でも……それは望みません。
先生の気持ちは先生のものであって、私のものじゃないから。
だから、先生の気持ちは、先生が伝えたい人に伝えてください。
私、先生には幸せになって欲しいです。
どうか、私が先生を好きになった分まで、幸せになってください。
さようなら。
終業式前日の夜、私はメールを出した。
先生に送る、最後のメッセージ……になるだろうメール。
私が今、先生に言いたいこと、全部を詰めて送った。
明日、先生はどんな顔をするだろうか……。
不安で心配で――でも、それ以上に気持ちを吐き出した達成感が、私を高揚させていた。
だから、一睡も出来なかった。
◆
【今日の放課後】
図書室で待ってるね。
バイブレーションにしておいた携帯電話が揺れたとき、必要以上に全身がビクンと飛び跳ねた。
先生からメールが届いたのは、終業式が終わって、帰ろうとしていた時だった。
液晶を見て、ゆっくりと通常の待ち受け画面に戻す。
友達の誘いを断って、私はカバンを握りしめて図書室へと向かった。
人影がどんどん少なくなっていく校舎の中をゆっくりと歩きながら、私の胸は急かすように高鳴っていく。
どんな返事が来るのか、不安だった。
迷惑だと思われていないか、心配だった。
嫌われていないようにと、祈っていた。
人影の無い図書室の、いつもの場所で、先生はいつものように文庫本を開いて座っていた。
私の姿に気が付くと、顔を上げ、いつもと同じ朗らかな笑顔。
「あ――先生、何か、用ですか?」
絞り出した一言。
もう、これ以上、声を出すことは出来そうになかった。
「うん……座って」
私は黙って、テーブルの上にカバンを置いて、先生の向かい側に座った。
今までずっとなんて言おうか考えていたのに、やっぱり先生が目の前に来てしまうと、何も言えなくなってしまう。
視線を上げると先生の笑顔があった。
いつかどこかで、こんな光景に出会ったような気がする。
既視感。
この数ヶ月、私は先生と二人でこうしていられて、本当に幸せだったと思う。
先生を好きになって、自分の性に悩んで、気持ちを悟られないことを心配して、嫌われないことを祈って――たくさんの苦しい事、楽しいことを味わった。
この恋が実らないことは、最初から分かっていた。
でも、それでも私は後悔しない。
先生に恋したことを、後悔なんてしない。
「メール、ありがとう」
その声に、私の意識が先生に向かう。
「大瀧さんはもう分かってると思うけど――ごめんね。私、大瀧さんの気持ちには応えること、出来ない。やっぱり、私には、あの人以外考えられないから……」
先生の顔が、わずかに陰る。
はい。
私は少し大きな声を出した。
自分の気持ちを振り切るように、はっきりと言葉を繋ぐ。
「私は大丈夫です。でも、先生、一つだけ約束してもらえませんか?」
「なに?」
私は一瞬だけ目をつむり、先生を見た。
「先生、幸せになってくださいね」
そして、私は笑う。
先生に笑顔が戻るよう――ありったけの『可愛さ』を込めて。
