●好きな人
智華(ちか)の手首に、白い包帯が巻かれていた。
左の、手のひらから手首にかけて、ナニカを包み込むように。
「また、やったんだ?」
私が聞くと、智華は少し悪戯っぽく微笑んだ。
「やっちゃった」
どこにも悪びれた様子は無かった。
それどころか、今さっきセックスでもしてきたかのような――すっきりとした満足げな表情さえうかがえる。
智華は手首を切るクセがある。
クセ――というよりも、趣味かもしれない。
手首を切ることが、趣味なのだ。
無意識に切っているというよりも、意識して手首を切っているのだから――クセというより、趣味だ、多分。
最初、智華が手首を切ったと私に教えてくれたとき――私は、どうしていいか分からないほど、動揺した。
手首を切る行為と、自殺という行為がイコールで結ばれていたから。
まさか、遊び半分で手首を切っている人間がいるとは、私の15年間の人生では予告編にさえ登場しなかった。
このクラスの人間達も、最初は好奇心や驚き、恐怖など様々な感情で智華に近づき、どうして切ったのかと、常識的な問いを投げかけていた。
しかし、何度目なのかさえ忘れてしまった今では、誰もそんな感情を表に出さなかった。
先生も同様だった。
最初の数回だけは、親身になったフリをして、智華にあれこれ意見をしていたようだったが――今では何も言ってこないし、何もしない。
智華の近くにいる人間は、私くらいのものだった。
みんなが無視しているのとは、ちょっと違う。
みんな、智華に近づけないのだ。
不気味ちゃん――智華につけられたあだ名だが、このあだ名が、クラスでの智華の立場を表現しているように思う。
今でこそ、智華が手首を切るという行為を、多少受け入れている私だが、最初の頃は違った。
「何で、そんなことするの?」
智華が手首を切ったことを初めて知った人間がするように、そんな質問を投げかけたこともある。
智華は、笑って答える。
「何でだと思う?」
「え? ん……何かあったとか?」
「何かって、何よ?」
「た、例えば……何か、死にたくなるほどツライこととか――」
「死にたくなるほど辛いことって、どんなこと?」
私の質問を逆に投げ返して、智華は楽しんでいるようだった。
ニヤニヤした笑みを浮かべながら、私の答えを待っている。
「失恋、とか?」
「失恋って、死にたくなるほどツライの?」
「本気で好きだったら、ツライかもしれない」
「本気で好きになったこと、あるの?」
「私は――まだ、無いけど……智華だったら、あるかもしれない」
「じゃあ、ダメじゃない。本気で好きになったこと無いのに、死ぬほどツライかどうかなんて、分からないわ」
「でも、みんなそう言ってるけど?」
「他人なんて、関係ないじゃない。だって、死ぬのは自分なんだし。自分で好きになってみなきゃ、死ぬほどツライかどうかなんて、分からないでしょ?」
「そ、それはそうだけど――じゃあ、レイプされたとか?」
智華は笑う。大声でゲラゲラと。
「レイプされたことあるの?」
「……無い」
「じゃあ、ダメね。分からないんだから」
それに。智華は呟く。
「死ぬほどツライっていうけど、死ぬってツライことなの?」
「――分からない」
「そもそもの発端が間違ってるみたいね。これは宿題にしておくから。知りたかったら、考えておいてね」
結局、私は智華に煙に巻かれてしまった。
智華がどうして手首を切るのか――その時の私には、想像も出来ないことだった。
私は、智華との空白が24時間以上あると、時折ものすごく不安にかられることがある。
明日、智華はあの席に座っていないんじゃないか――もしかしたら、もう智華は学校に来ないんじゃないか――私の前に姿を現すことは、二度と無いんじゃないか――。
教室の中央近くにある、主のいない席を見るたびに、私はそんなことを考える。
土日を挟んだ月曜日は、まだいい。
問題なのは、平日、智華が休んだ場合だ。
風邪だとか腹痛だとか、先生は適当なことを言うけれど、私――だけじゃなく、クラスのみんなが知っている。
ああ、不気味ちゃんはまた手首を切ったんだと。
少なくとも、月に一度は、そんな空白が存在する。
多いときには、週に一度、あることもある。
「死ぬ気は無いよ。死なないように、気をつけて切ってるから」
智華は笑顔でそんなことを言うが――私の不安は、どうしたって拭い去れるものではない。
万が一、間違いがあったら?
智華のことで頭が一杯になってしまう。
高校受験を控えた、大切な時期にもかかわらず、私は智華で一杯だった。
年が明け、私と智華は、二人だけで初詣に行った。
電車に乗って、ちょっと遠くの街まで。
高い山の上にある神社は、立派な大きさに見合うだけの、たくさんの人たちでごった返していた。
私と智華は、しっかりと手を握り合って人混みをかきわけ、お賽銭を投げ、手を合わせて願をかけた。
帰りの電車の中には、あまり人がいなかった。
私と智華は、四人がけのボックス席で、向かい合わせに座っていた。
「ねぇ、智華は何をお願いしたの?」
「ちゃんと高校に合格すること」
え? つい、声が出てしまった。
智華は高校には行かない。
何度誰に説得されても、高校には行かないとしか答えなかった。
なぜなのかは知らないが、少なくとも今の今まで、私は信じていた。
「私は行かないよ、高校には。あなたがちゃんと高校に合格するようにって、そうお願いしたの」
「……私のため?」
「そう、あなたのため」
智華は笑う。
「だって、一生懸命勉強してたじゃない。高校行きたいんだなぁって思ってたし。これで落ちたら、勉強した時間がもったいないでしょ?」
「それはそうだけど……」
私は、呟く。
「どうして? どうして、智華は高校に行かないの? 私――智華と一緒に高校に行けると思ってたのに」
智華は微笑みを崩さない。
いつもと同じ表情のまま、セーターの袖をまくり、左手首を見せてくれた。
たくさんの傷。
何度も同じ所を切ったからだろうか――傷口が盛り上がり、肉のラインが幾筋も形成されている。
「前に、聞いたでしょ? 私が、どうして手首を切るのかって?」
私は頷く。
「どうしてか、知りたい?」
「知りたい――教えてくれるの?」
「いいよ。今だけ、教えてあげる」
智華は左手首を隠すように、右手でやさしく覆う。
「なんていうか……生きるためかな」
どういうこと?
見ると、智華は優しく私を見つめている。
「カミソリを、スッと手首の上で走らせるの。そうすると、肉がキレイに切れるのよ。で、次第に赤い血がこぼれてきて――痛いなぁって思う」
「痛いと思ってるのに、やめないの?」
「痛くていいの。だって私、痛みが欲しいから」
智華の言葉の意味がよく分からない。
「痛い傷口からね、意外と出てくるのよ、血って。私ね、自分の血をなめるのが好き」
智華は左手を持ち上げ、細くて白い腕を舌で舐めあげる。
「手首から溢れる血を、こうやって舐めるの。あったかいんだよ、切ったばかりだと。自分で自分の血を舐めてると――私、生きてるんだなぁって、感じるの。自分が生きてることが分かるの。傷口は痛いし、血はあったかいし、舐めると、自分の中も熱くなってくる感じがして」
智華は何も無い細い腕を、愛おしそうに舐めあげている。
小さな舌がチロチロと、左手首の傷を舐めている。
智華の目は、まるでそこに自分の血が溢れているような目だ。
何度も何度も何度も――智華の舌は、血をすくって呑み込もうとしている。
ゴクリと、私のノドがなる。
「何で、みんな高校に行くのかな?」
「そ、それは――やっぱり、将来、大学とか行くためじゃないかな?」
「そうなの?」
智華は腕を舐めるのをやめた。
「私は――分からないけど、人生の選択肢を増やすためだからってみんな言ってるし……何か、やりたいことが見つかったときに、困らないように、大学まで行く――つもりだよ、多分」
「なんで、無理矢理にでも高校に行かせようとするんだろうね? 私には、それが分からないんだ」
私は智華を見たままだ。
智華は、優しく微笑んでくれる。
「どうして男を好きになるのかとか、どうして学校に行くのかとか、どうして友達を作るのかとか――私、分からないことがいっぱいあるの」
陽の光に照らされた智華の笑顔は、とても綺麗だった。
不気味なくらいに。
「分からないことをね、分かろうとして一生懸命考えてると――多分、一番分からないことに突き当たるのよ。私――どうして、生きてるんだろうって」
「生きてる、意味?」
智華は頷く。
「どうして、私生きてるんだろうって、良く思うの。私は今、生きてるのかなとも、思うのね。で、そういう風になると、自分が生きてることを確認したくなるの。だから――」
「血を舐める……の?」
「そう。痛い血を舐めてると、生きてる気がする。私、生きてるんだなぁって、実感するの。どうしてなのかは分からないけど、私は今、生きてるんだなぁって、すごく感じる」
「それが、手首を切る理由?」
「ホントはね、手首じゃなくてもいいんだけど――手首から血を出した方が、一番血が舐めやすいでしょ? だから」
生きてる意味って――なに?
私、そんなこと、ほとんど考えたこと無かった。
私はなんで生きてるんだろう?
――私の生きている意味。
「私もあなたも――何で生きてるんだろうね? 不思議だよね?」
智華が笑った。
「もし、答えが――あなたなりの答えでいいから、分かったら、一番で教えてね」
智華が右手の小指を立てる。
「指切り。約束だよ」
私も、小指を絡めた。
「あなたの答え、待ってるから」
その日、智華は自殺した。
乗換駅で電車を待っているとき、私の目の前で飛び込んだのだ。
智華の体がゴムマリのように弾き飛ばされ、鉄の車輪でひねり潰され、肉が飛び散り、鮮血がケチャップのように吹き出た。
音がした。
骨が削られる音。
肉が引きずられる音。
智華が砕ける音。
私は目の前で、智華が智華で無くなる光景を最初から最後までずっと見ていたはずなのに、一連の流れとして記憶できなかった。
断片的な光景だけが、私の頭の中に残っている。
智華の両親も、日頃から手首を切っていることを知っていたため、自殺したと聞いても、智華が死んでも、泣くことは無かった。
ただ、私に頭を下げて、ごめんなさいと連呼した。
警察官に保護されて、色んな話を聞かれて、自殺の兆候はと聞かれても――毎日あったとしか答えようが無く、疑いようも無かった。
智華を知っている人間の誰もが、智華の自殺を疑わなかった。
高校を出て、成人式を終えて、大学を出るころには、私はすっかり大人として分類される人間になっていた。
今でも、智華の事は思い出す。
生きてる意味――智華の言葉。
私は久しぶりに智華のお墓に来た。
広大な霊園の一角にある、小さなお墓。
雑草もなく、綺麗に手入れが行き届いている。
私は、墓石の前に花を飾り、線香をあげた。
「私――私には、やっぱりまだ、答え見つからないよ」
智華はどう思うのだろうか?
智華よりもずっと長く生きている私が、まだ見つからないということに、呆れているのだろうか?
「でもきっと、そのうち見つけるから。私の生きてる意味。何十年も生きる意味。きっと見つけて――私、またここに来るから。だから、待っててね」
私は墓石から離れて、振り返った。
智華は、いつまでもあそこで私を待っていてくれる。
そう思うと、私は安心できた。
